優しい毒・5
10
胸に圧迫感を感じてガボッと吐いて。頬に痛みを感じたとき。死んでも痛みって感じるんだなって思った。
「拓斗? 拓斗!!」
へえ、自己紹介しなくても名前知られてるんだ……。でも、呼び捨てなんて……。あの世って、意外に乱暴…………。
「拓斗ってば!!! 返事してくれ!」
誰だよ、眠いのに……。
痛いのはほっぺたを叩かれてるせいだった。
俺はうなった。
「拓斗! ……よかった……」
声の主に抱き締められた。きつく、固く。耳元に熱い息がかかった。
「家へ……帰ろう」
囁きのようなそれは、低く甘い響きを苦痛でかすれさせた感じで、龍樹さんのだって分かった。
「龍樹……さ……ん……?」
あ……、龍樹さんもびしょ濡れだ……。
「こんな時期に水泳なんかして! 死んじまったらどうするんだっ!!」
……えっと……。水泳のつもりはなかったんだけど……。
死んじまったらって、つまり……俺は……生きてる?
「もうっ! 君って奴は!!」
じゃあ、泣きそうな声で俺を抱き締めたまま叫んだ、この龍樹さんも……?
「よかったぁ……、生き……て……たんだぁ……」
龍樹さんが生きててくれた……。もうそれだけで……。
力が抜ける。
「拓斗っ? だめだっ、眠るなって!」
そうやって話しかけ続けながら、車まで俺を運んだ。運転席に誰かいて、俺は龍樹さんに抱き締められるみたいにして、一緒に毛布にくるまってた。ヒーター全開にしてたみたいだけど、濡れた服のせいか、あんまり暖かくない。でも、龍樹さんとくっついている所だけはほんのり温かくて、気分はよくって、うつらうつらしてた。
やがてカクンてして、車のドアが開いた。冷たい空気が吹き込んできて……。身震いが止まらない。
龍樹さんが俺を抱きかかえて降ろした。俺の重みなんて、全然苦にならないらしい。
俺達が降りると、すぐさま車は走り去って。
「拓斗……」
囁き声が俺の耳に直に触れた。息が耳たぶを瞬間熱くして……。だけど、龍樹さんの声は全然甘くはなかった。心配してくれてる。気遣ってくれてる。それが分かる真剣さ。
「着いたよ」
夜気のせいでどんどん寒くなってかみ合わない歯の間から返事した。
「ここ……どこ……?」
「僕の家だよ。今日はここに……」
言いながら、かちゃかちゃ音をさせてた。鍵の音……? 開いたドアから抱きかかえられたまま中に入って……。
「風呂が手っ取り早いな」
言うなり、俺を抱いたまま彼は風呂場へ向かった。ザアッと音がして……、湯をためているらしい。
湯気が立ちこめ始めた洗い場で、龍樹さんに濡れた服を脱がされた。全裸にされてもう一度抱きかかえられたとき。
「や……!」
朦朧とした意識で、それでも恥ずかしさから抵抗した。
「恥ずかしがってる場合じゃ無いぞ! 身体が冷え切ってる。すぐに温めてやるから」
龍樹さんの声、少し怒ってるようだった。
熱くない程度のぬるま湯の中に放り込まれて。少しづつ温度が上がるように蛇口からは湯気を盛大に沸き立たせた熱い湯が出続けている。
バスタブに寄り添うように龍樹さんが覗き込んでた。ゆっくりと湯をかき混ぜながら。龍樹さんが一かきする度、俺の肌に暖かい感触が触れていく。
透明な湯の中で、俺の裸はしっかり見られてる。すごく恥ずかしくて、でも、暖かくて気持ちよくって。ふうっと眠くなった。
「ああっ、まだ眠るな! 今度は風呂でおぼれる気か?」
湯で温まったはずの手が俺を叩いた。何故か感触は冷たく感じて……。
「ごめ……、龍樹さ……も……冷え切っ……てる……」
ぼやけた画像の中でギリシャ彫刻の微笑みが見えた。
龍樹さんは俺の腕を湯から引きずり出してバスタブの縁を握らせて立ち上がった。
「タオル持ってくる。しっかり捕まってろよ」
何やらばたばたやって、タオルを出したらしい。濡れた服を脱いで、腰にタオルを巻き付けた姿で現れた。手には山積みのバスタオル。
しなやかで贅肉のない身体は、しっかり筋肉が着いていて。ギリシャ彫刻みたいだったのは顔だけじゃなかったんだ。すごく綺麗で見とれてしまった。こんな時だけど、この人は着やせしてるんだなってぼんやり思ってた。
見た目のイメージよりも筋張った力強い腕がタオルでくるみ込みながら茹であがった俺を抱き上げた。
「自分……で……!」
「いいから! 変なことはしないから。じっとしてて!」
俺は龍樹さんの勢いに気圧された形で、その腕に身を任せてしまった。
かったるいせいもあったけど、龍樹さんの言葉を信じたから。階段を上る間も力強い腕は俺を軽々抱いてて。胸元に当てられた俺の耳には直に龍樹さんの鼓動が聞こえてくる。
そのリズムが結構心地よくて。
愛してるって繰り返し囁かれてるみたいな気分になる。
このままベッドに連れてって貰うのも良いかなって思えてきた。
………………ああ、また俺は……。
「龍樹さん、ごめん……。俺……」
「いいんだ。君さえ無事なら……、いいんだよ」
そっとベッドに降ろされた。毛布を何枚も掛けられて。風呂で温まった体は毛布の中を心地よい温室に変える。額に手を当てられた。そっと撫でられて……。
ひんやりしてて、気持ちいい。
こういう風に面倒見て貰えるのってすごく久しぶりで……。
心配そうに覗き込んでる龍樹さんに、俺は縋るように笑いかけてしまった。
龍樹さんは、それに優しい苦笑を返してよこした。
「気分は……?」
「うん……、眠いけど……いいよ。…………龍樹さんこそ……」
「うん、僕は平気だから。下のソファにいるからね。君はゆっくり眠りなさい」
頷いた。何も言えなくて……毛布をかぶった。
龍樹さん、優しすぎるよ。俺は何にも返せない。返せないから辛い。
ああ、誕生日プレゼントも用意し損ねたんだっけ……。
「じゃ、僕も風呂入るから……。おやすみ」
龍樹さんは、ポンポンと俺の毛布を軽く叩いてから、そっと出て行こうとしたんだけど。
「待って!」
考えるより先に呼び止めてた。
「どうした?」
戻ってきた心配顔が俺を覗き込む。
半身を起こして龍樹さんの首に手を遣った。
え? って顔したところを不意打ちで頬にキスして。
「ごめん!」
目が点の龍樹さんの顔を見ないように、俺はもう一度毛布をひっかぶった。
すっごく恥ずかしくて、ずるいような気がして……。
「誕生日、今日だよね。プレゼント買えなかったから……」
毛布越しに頭を撫でられたような気がした。穏やかな声音の、
「ありがとう、何よりの贈り物だよ」
が、聞こえて。
そっと毛布から顔を出したら、龍樹さんは消えていた。
思わずしちゃったけど、俺はまた龍樹さんに残酷な事してしまった。
俺は……ずるい奴だ。
龍樹さんの特別扱いが嬉しくて、失いたくなくて、嫌だっていいながら、残酷な仕打ちをしてしまう。
龍樹さんのこと、好きなのに、いっぱい傷つけてしまった。
ごめん、龍樹さん。ひどい誕生日だよね……。
でもね。同じじゃなくても、俺も龍樹さんのこと大切なんだ。
下のソファで毛布にくるまって寝るつもりの美貌の人を思いながら、俺は眠りに落ちていった。
翌朝、旨そうな匂いで目が覚めた。
俺は、知らない部屋の知らないベッドで俺を見つけて、それから龍樹さんのとこにいることに思い及んだ。
全身がだるかったけど、匂いに誘われて起きあがった。
あ、俺、裸…………。
ベッドの横に置いてあったパジャマを着た。下着もなかったから、直に。どうやら龍樹さんのらしくて袖も裾も長く、だぶだぶ。幾重にか捲り上げた。
腹が滅茶苦茶空いていた。食いしん坊のこの俺が、丸一日半、断食させられたんだ。死にそうに腹減ってたことを、下から匂ってくる食い物の匂いが思い出させて……。
ふらつく脚でゆっくり階段を下りた。
店の厨房より小さなキッチンを覗いたら、龍樹さんがすっかり身支度を整えて、エプロン姿で料理していた。
ふと目を上げた拍子に俺を見つけて。
「起きて大丈夫なのかい?」
「うん……。おはよう」
「……おはよう。今、上に持っていこうと思っていたんだ、朝食。……食べれたら食べて。あり合わせだけど我慢してくれよね」
「我慢なんて……。俺……」
言いながら少しずつ蘇ってくる記憶が俺から言葉を取り上げていた。
「!」
龍樹さんに抱きついていた。
「……拓斗……くん?」
戸惑い声が俺を呼ぶ。
「龍樹さん、毒飲んだって! あの人が、俺のために飲んだって言ってた! 俺……俺のせいで……」
しゃくり上げるばっかで巧く言いたい言葉が出せない。胸が支えて、ただ泣くしかできなくて、もどかしいよ。
龍樹さんはちゃんとここに居る。温かい胸がちゃんと呼吸して……。良かった。ほんとに良かった。
「君のおかげだよ」
穏やかな声がして、優しい感触の手が俺の頭を撫でた。
「え?」
「君がヒントをくれた。彼女が使ったのはスズランの毒だ。コンバラトキシンて言ってね……」
「スズランの?」
「スズラン、紅林綾芽の心不全と来れば……ね。スズランには、ジギタリスに似た毒素があるんだ。強心配糖体の一種で。このテの物は、心臓の悪い人に適量使えば薬になるんだよ。まあ、スズランのは心臓毒性が強いから使われないけど……。それが使われたって意識して検査でもしなければ見つからない様な毒物だ」
ああ、葉山さん、植物毒って言ってたっけ。
「念のために用意しといた物が役立った。あれは、効き始めるまで時間がかかる。経口投与で良かった。僕は直ぐに催吐剤を使ってほとんど吐き出してから、キニジンを適量注射した」
「じゃ、分かってて飲んだんだ。そうだよな、それでなきゃ、龍樹さんが毒って分かってる物、簡単に口にする訳無い……よね」
「だけど!」
「え?」
「心配したんだよ。ほんとに……!! 君が死んだら、僕は……<」
ぎゅっと抱き締められた。
「……貸金庫の中身が封されたままだったし、君が見に来ない訳無いと思って、待っていたのに……。電話しても出ないし、君の家まで行こうかとやきもきしていたところに彼女から連絡あってね。紫関に手配を頼んでおいたから、君たちの居所も分かった。直ぐに別荘に向かったのに、半歩の差で君は飛び込んでしまって……。遅れてすまなかった。もっと早く僕たちが着いていれば……」
俺の馬鹿さ加減を言わず、謝ってくるなんて……。俺、もう、なんて言っていいか分かんないよ。
「………………ないっ、んなことないっ」
俺は頭を振り続けてた。龍樹さんの胸で、顔を擦り付けるみたいにして。
男の俺が今やってること、まるで女みたいだなって、ふっと思った。それが、背が高くて逞しい胸をエプロンで隠してる龍樹さんのせいでそう感じるんだって気づいて、両手を突っ張らして身を離した。
頬が勝手に熱を吐いてる。
龍樹さんの胸は固くて、暖かくって、ちょっと鼓動が早くって……。
俺が甘えるほどに龍樹さんが苦しい思いするんだって事、心臓の音が改めて教えてくれたような気がして。
「ごめん………………。それに……ありがとう」
やっとの事でそれだけ絞り出した。
龍樹さんは微笑んで俺を解放した。ものすごく透き通った笑みのままで。
俺は、葉山紀代子に自分で言った言葉を思い出していた。言われた言葉も。
「葉山さん、どうなったの?」
「別荘に帰ってきたところで紫関達に捕まったよ。テープは処分しちゃったから、逆に紅林家がお嬢様の乱行に関しては押さえにかかるだろうね。情状酌量が通るといいけど」
「ただの妬みの殺しみたくされちゃうのかな」
「どうだろうね」
「紅林さん、どうして龍樹さんに託したんだろう……」
「うーん、死んでしまった人の考えは、本当のところは確かめられないから……。ただ、ちょっと分かるかな……。添えられてた手紙では、僕なら……少しは理解すると思ったんだって。彼女の立場……」
言葉を切った龍樹さんは、俯いてフッと笑った。
「愚かなことだけど、彼女にとって、あのフィルムとかは、葉山紀代子に言うことをきかせるための切り札だった。もう彼女の心を手に入れることはあきらめていたんだろう。自分が死んだ後、あれが人目に触れるのは避けたいが、葉山紀代子に直に渡すわけにはいかなかった。彼女は死のぎりぎりまで葉山紀代子に離れて欲しくなかったんだな」
「どこかで……狂っちゃったんだね。あの人達、幼稚園からの知り合いだって。葉山さんは、友達として紅林さんのこと好きだったって、泣いてた」
「そう……」
ひとしきりの沈黙の後、目を閉じて頷き、俺の方を見たときは明るい微笑みを瞳に浮かべて見せた。
「飯にしよう。拓斗君のはこれ」
渡された盆には、お粥とがんもの含め煮、ごま塩と香の物しか載ってない。だけど、龍樹さんの手元にある盆には二つ目玉のベーコンエッグにハッシュドポテト、人参のグラッセ、ほうれん草のソテーが添えられている皿と、グリーンサラダ、スライスされたオレンジが一人分載っていた。
「美味しそうだね」
そっちの方が、とは言わなかったけど、龍樹さんには分かってたみたいだ。
「君はお粥にしておきなさい」
「だって!」
言った途端だった。これじゃ足りないって言う前に、龍樹さんはお盆の物を全部捨ててしまった。
「あ………………」
もったいない。それに、あれって龍樹さんの朝食なんじゃ……。
「食べ物粗末にすると、罰あたるからねっ」
龍樹さんはそれを受け流して、真剣な瞳で俺を覗き込んできた。縋るんでもない、求めてるんでもない、俺を叱りつける瞳。
「こんな物、見せた僕が悪かった。君は、身体が弱ってる。いつも通りの食事じゃ、胃に負担がかかりすぎるんだよ。今のところはお粥で我慢しなさい」
「……お粥のおかわりはあるの? それなら我慢する……」
上目遣いで見上げたら、微笑んだ瞳とかち合った。
「たっぷりあるよ」
肩を抱かれた。促されるように食卓について。
お腹がキュルキュル言ってる。龍樹さんのお粥は一口めで俺を食欲魔人に変身させ、三口目で器から姿を消した。
「おかわり?」
「うん。龍樹さんのお粥、前に食べた母さんのより美味しい」
俺が差し出した茶碗を受け取り、二杯目をよそりながら龍樹さんは笑った。
「それは……、最高の賛辞だね。どれ、僕も相伴しよう」
自分の分を用意して俺の向かいに掛けると、一口食べて満足そうに頷いた。どうやら、自分自身で納得のいく出来だったらしい。
「龍樹さん、和食も作るんだね」
がんもに添えられた蕗を口にしながら、その味の良さに感心して言った。どちらかと言えば京風の、たき物って感じの味。
龍樹さんの頬がほんのり紅潮した。
「……僕はお箸の国の人なんでね。中華も作るよ。ま、商売になる味じゃないけど」
「十分なるんじゃないの? この味だって、このあいだのお店のみたいだよ。きっと中華も、龍樹さんが言うよりプロっぽい出来なんでしょ?」
「プロっぽいとは思えないけど。快気祝いの時にでも御馳走しようか? 今日の昼食は少しだけボリュームアップして精進料理にしてあげる」
って、ここからなら徒歩十分て所に俺の家があるんだけど……。
俺の顔色で考えてること読みとったのか、龍樹さんが先回りして言いだした。
目に必死な色を浮かべて。
「君の体調がもう少し良くなったら、僕の服を貸そう。君の服はまだ乾かないし、クリーニングしないととても着れない状態だから……。医者としては、もう一晩ぐらい様子見たいけど。君がどうしても帰りたいなら、昼飯までにここでもう一寝入りして、食べてから帰ったほうがって……」
「そんなにまでして貰っちゃったら俺……。龍樹さん、……お店は? 大丈夫なの?」
龍樹さんはただ肩をすくめた。
「臨時休業の延長。……店より君の方が心配だ。地下室に食事抜きで監禁されたあげく、真冬の海で死にかけたんだよ。体力が戻るまでは……」
「ごめん…………」
俺はマジで申し訳ないって思って謝ったんだけど、龍樹さんはおろおろした声で言いつのってきた。
「ああ、恩着せるつもりじゃないんだ。済まない。店、明日から開けるから。調子取り戻したら、また手伝って欲しい」
龍樹さんの瞳に、また縋るような光が浮かんでいた。
「うん……」
そう答えながら、今のままじゃいけないって思った。龍樹さんの気持ちは重すぎる。嬉しいけど、重すぎるよ。
今さっきの返事が嘘になっちゃうけど、ここに来るのは止めようって決意した。
こんなに世話かけて迷惑かけっぱなしの俺だけど、全部返そうと思ったら、いつまでも……。憩いの場所を失うのは辛いけど、しょうがないよな。
俺達はあの二人みたいになっちゃいけないんだ。このままじゃ、いつか龍樹さんは爆発する。その時俺は、上手く受け流す事なんて出来ないだろう。俺は、葉山さんみたいに割り切るには龍樹さんのこと好きになりすぎてるから。
きちんとさよならして、龍樹さんには頭を冷やして貰ってさ。龍樹さんに、あんな頼りない微笑みを浮かべさせてしまうのは……いい事じゃない。
そう、今ならまだ間に合うはず……。
借りた服をクリーニングして返してから、俺は心に決めた通り龍樹さんに会うのは避けようとしていた。
コンビニの弁当と、自分で煎れたコーヒーで我慢して……。
日に一度はかかってくる電話では、まだ調子が悪いって言っておいた。横浜市大に落ちたってのも調子の悪い理由の一つだったけど。取りあえず逃げの一手って事で。
それなのに……。
五日後に紫関さんが事情聴取だといって呼び出した先は準備中の札を下げた『El Loco』だったんだ。
久しぶりに耳にしたドアベルは俺を責めるように響いて。
龍樹さんは、紫関さんがいるせいか平静な瞳で俺を迎えた。いつもの嬉しそうな微笑みも無し。
で、聞かれたことに答えてるうちに、龍樹さんが一度も俺のことを見ないのに気がついた。巧みに視線を逸らして、顔はこっちに向けていても、決して俺を見ようとはしなかったんだ。
ホッとしていい筈なのに、がっかりが胸の支えになってた。
龍樹さんに避けられるのって、想像以上にショックで。
しかも俺を助け出したときの話になったら、さりげなく立ち上がって厨房の奥に消えてしまった。
紫関さんが笑いながら、照れてると後ろ指さしたけど、俺には照れてるというより怒ってるみたいに見えた。
事情聴取らしくない会話で、俺を助け出したときの龍樹さんの様子を教えられた。
まず、葉山さんは龍樹さんを見た途端幽霊でも見たような顔で悲鳴を上げたんだそうだ。
その時の龍樹さんの形相ときたら、噛みつかんばかりの、いつもとは想像つかないくらい怖い顔だったそうで……。
食ってかかって、怯えてる葉山さんから俺が海の中だって聞き出して、即座に俺が落ちたところから飛び込んで……。やっとの事で見つけた俺が息してないとなったら、心肺蘇生法やりながらも半狂乱だったって……。
「救急車なんか待ってられないって、俺に無理矢理送らせたんだぜ。あいつは普段大人しいくせに、昔から言いだしたらきかない奴でさ。もう、周りの奴らもあきれ顔よ」
紫関さんは迷惑がってない笑い顔でそう言った。
この人は龍樹さんが俺のことどう思ってるか、もうお見通しなんだった。いや、その場に居合わせた人達みんな……。
「龍樹に引導渡してやってくれないかな」
紫関さんが急に真顔になって俺のことを覗き込んできた。それまでは、事情聴取とは名ばかりの和やかな雰囲気だったのに。俺のこと、少し怒ってるみたいにも感じられた。
「あいつが真剣なのは分かってるよね? ただ避けるんじゃなくて、はっきりふってやってくれ。あいつは、紅林綾芽みたいな悪あがきはしないはずだから……。俺が諦めさせるから」
龍樹さんの戻ってくる気配がないことを目で確かめながら、小声で言う紫関さんは、全て判ってるというように俺を見据えていた。
なんかムカついた。龍樹さんにそんな影響力を持ってると信じる男の存在。
「龍樹さんに頼まれたんですか?」
「あいつがそんな事する訳無いじゃないか。あの日、あれから何があったかは知らないけど、以来龍樹は……抜け殻みたいでね。君がどうしてるか聞いて探りを入れて見れば、来ないから分からないの一点張り。煎れるコーヒーはまるで泥水みたいだ」
少しホッとした。だって、これは俺と龍樹さんだけの問題なんだ。
「……俺、前に言われたときには断ってるんです。友達でいいって、龍樹さんにも言われて……。龍樹さんの気持ちは、そんなんじゃないって何かにつけて俺に知らせてくるけど、それはあくまでも信号で、嫌とかだめとか、そういう返事が出来る感じじゃないんですよ。だから俺…………」
言いながら説得力無いなって内心溜め息ついていた。
実際、俺自身それが言い訳に過ぎないのをよく知っている。龍樹さんと関わっていたいってのは結構俺にとっては捨てきれない想いだから。
さっきの感情だってそれを証明してた。
「友達でいるわけにはいかないくらい、龍樹さんの気持ちは重くて……。怖いくらいで……。そうです、俺、逃げてたんです」
「そうか……。そうだよな。俺だって、逃げ出すな……、きっと。いや、立ち入ったこと言って悪かったな。ただ、龍樹があんまり……」
言いかけたところで龍樹さんが何か持って戻ってきた。そばで見たら大きな盆に沢山のクッキーの包みが積みあがっていたんだ。色とりどりのリボンで飾られた、小さいけれど可愛らしい物。
「頼まれてた物。忘れるとこだった。こんな包み方でいいか?」
「あ? あ……ああ……」
頼んだ本人らしい紫関さんはまるっきり忘れていたのか、鳩が豆鉄砲という顔で返事をした。
「こっちの小袋に入れて、このシール貼って。それくらいは自分でやってくれよな!」
言いながら龍樹さんは手提げ袋にザラザラとクッキーを落とし込んで、小花模様の小袋とリボンの形のシールのシートをその上に載せていた。
紫関さんは龍樹さんに袋を渡されるときも同じ表情。龍樹さんは無表情なまま。いつもの営業スマイルすら浮かべていない。
俺があんぐり口開けてそれを見ていたからだろうか。
「ホワイトデーに使うお返しなんだ。連名で寄越しやがるから、返すときはえらい散財でね。返さなきゃ返さないで、後々までひびくしな」
言い訳がましく説明する紫関さんはちょっぴり顔を赤くしていた。
「ラッピング材料の分しか金寄越さないくせに……どこが散財なんだよ? いっとくけど、商売物じゃないから、味に自信ないぞ」
声に笑いを含んでいたけど、やっぱり紫関さんの言うとおり、龍樹さんは元気なかった。
紫関さんに言われるまでもなく、俺は逃げ続けるわけにはいかなかったんだ。俺の中で、龍樹さんて人は思ってたよりずっと大きな存在になってて……。
考え込んでいた俺は視線を感じてふと目を遣った。龍樹さんがさっと視線を逸らした。耳元が少し赤くなっていて……。
(俺は……)
あの視線は俺のことをまだ好きだって……、忘れられないって、露骨に告白していた。そらせた目元はそんな自分を叱りつけている感じだった。
(俺は逃げられない)
「じゃ、俺、署に戻るわ。拓斗君、ご苦労だったね」
「いえ」
紫関さんが立ち上がったけど、俺は龍樹さんの煎れたコーヒーを見つめたまま答えた。もう、とっくに冷めちゃってる。ここで出された物を口にしないままなのってこれが初めてだ。
紫関さんが泥水だと言ったコーヒー。ほんとにそんな味だろうか。
「……帰っていいよ?」
「あ、これ飲んでから帰ります。警察のおごりですよね? もったいないから……」
ぶっと、息を吐いて、紫関さんは優しく笑った。
「ああ、俺の! おごりだよ。心して飲めよ」
「はい」
俺は自然に微笑んでいた。紫関さんて、そういう雰囲気持っている。もちろん、コーヒーはここに居残るための言い訳に過ぎない。
「じゃ」
「ああ」
龍樹さんとのやりとりはほんの短く。
頭を掻き掻き出て行く姿は、何となくひょうきん。
さて、と、冷めたコーヒーを啜ろうとカップに手を掛けようとしたら、ソーサーごとさらわれた。
「?」
見上げた視線は怒ったような冷たい視線とぶつかった。
「冷めてるから」
ぶっきらぼうな言い方。こんな龍樹さんは初めてだ。
「いいよ、冷めてても」
「僕がいやなんだ。煎れ直す」
ぷいっと背中を向けてコーヒーを煎れ始めた。
この香りはモカとコロンビアの組み合わせ?
「……怒ってるの?」
「なんでそう思う?」
「俺が逃げてたから」
肩がぴくって震えた。
「逃げていたの? 気がつかなかったな。何から?」
「俺、そういう龍樹さん、嫌いだ」
言った途端に店中の空気が凍り付いた。俺の言葉が切り裂いた龍樹さんの傷口が、見えない冷気を吐き出している。
龍樹さんが振り返った。わななく唇も、凍り付いた瞳も、吐き出したい言葉が出詰まって苦しいと訴えている。
俺は俯かずに龍樹さんを見上げていた。
紫関さんに言われたからじゃない。けじめる時期なんだって思ったから。
「……分かってるくせに、そうやって気づかない振りしてごまかすの……嫌なんだ。こんな中途半端、もう、お終いにしようよ。俺、龍樹さんが俺のことでそんな顔するの、耐えられない。だから……」
ガチャンと音がして。
サイフォンを叩き付けるようにして置いた音だった。
「分かった! 終わりにするよっ」
いつも低く穏やかにひびく声音が裏返って引き裂くような叫びに聞こえた。金色の瞳が潤み始めた。縋る光はなく、ただ苦痛だけが浮かぶ歪んだ龍樹さんの顔。
俺に見られるのが嫌だったのか、俯いて顔を隠してしまった。
「お、男らしくないのは分かっていた。振られたのに、友達だなんて……君を悩ませてしまって……。僕……僕は…………っ」
俯いたまま肩を震わせる龍樹さん。柔らかなウエーブの金色に近い茶色の髪が表情を覆い隠してしまっていたけれど、泣いているって分かる。やがてポトリと落ちてカウンターにはじけた滴がそれを裏付けた。
「避けられてるって分かってるのに……。だけど……好きなんだ。この気持ちはどうしようもなくて……。気がつけば君のこと考えてる。なんにも手が着かなくなるほど君で頭が一杯になってしまうんだ……。厭がられてるのに。嫌われてるのに……ぼ……僕は……僕は……い……つか、振り返って……も、貰えたらって……っ。君……に……あ、会えるだけっ……でもい……いいっから……って……」
低い嗚咽が続く間、俺はこの人の涙の重さに眩暈を感じていた。
とてつもなく重くて、暖かくて甘い。
「龍樹さん……勘違いしてる。俺、もう逃げないって言いたかったんだ……」
龍樹さんが固まった。
「龍樹さんのこと、嫌いじゃないから悩んだ。今だって、俺、よく分かんないんだ。龍樹さんのこと好きだよ。大好きだ。けど………………」
ゆっくりと顔がこちらを向いて……。泣きぬれた瞳が俺を見つめていた。今の俺の台詞が飲み込めるまでに時間を要したんだろうか。ぼんやり見つめるその瞳は、何の考えも浮かべていないみたいなガラス玉に見えた。
「嫌いって……さっき……」
「ごまかそうとする龍樹さんは嫌だって言いたかったのに。上手く言えないけど、俺、龍樹さんとちゃんと付き合っていきたいんだ。俺を気遣っておどおどするのやめて欲しい。逃げないから、ちゃんとぶつかってきて。俺は、嫌なら嫌って言うし、歩み寄りが必要なら考えるから。本気で考えるから……。友達って言葉で逃げる気ないから……。だめ……かな? ……怒った?」
龍樹さんはカチッとスイッチの入ったロボットのように、幾度か瞬きをしてから深く息を吐いた。
「君って……君って奴は……。どういうつもりなんだ? 今の僕にそんなこと言ったら……」
「言ったら?」
「君を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない……よ?」
「龍樹さんはしないよ。そんなこと。信じてる。紅林さんとは違う。俺だって、葉山さんとは違うからね」
「……そういうことか……。それで君は……」
その日初めて龍樹さんが笑った。乾いた笑いだった。
「確かに僕は君を愛してる。要するに君は僕が君の顔色をうかがうのが気に入らないんだね?
君が逃げないと約束してくれて、僕が本音を出したとして……。君は僕を受け止めてくれるのか? 本当に出来るのか?」
龍樹さんの言い方は、覆い被さるように高圧的で。かなり怒ってるように見えた。
「……で、出来るよ。自信はないけど、俺、逃げないって決めたんだから」
半分くらいは意地で答えてた。
龍樹さんはフッて笑ってエプロンをとると、カウンターの向こうから出て来た。座っている俺の側までつかつかとやってきて、俺の腕をとった。すごい力で椅子から立ち上がらされて。身長差のせいで、俺はつま先立ちのまま龍樹さんの腕に宙づり状態。
「キス……させて」
覗き込んでくる瞳は青白い炎がちらつくみたい。本能的に腕を払おうとして、逆に力強い腕に引き寄せられてしまった。
「僕を受け止めてくれるなら、キス、させてよ……」
言いながら唇が近づいてきた。形が良くて、程良い赤みを持った唇が、ほんの少し開いた形で……。吐息を肌で感じて、俺は……。顔を背けて拒絶した。本当に本能的な反応だった。考える前に身体が動いていたんだ。
溜め息を頬に感じた瞬間に突き放された。
「ほらね。自分がどんなに残酷か君は全然分かってない」
「ごめん……」
俺は思わず謝っていたんだけど、龍樹さんはそっぽを向いてしまった。
視線をそらせた目元は朱に染まっている。やるせない微笑みを口元だけに浮かべて……。
やがて深い溜め息の後、呟くように言った。
「いや、試したりして悪かった。僕は君を愛してる。それは覚えておいて欲しいけど。君に無理強いはしないから。今まで通りの付き合いでいいんだ。ただ、僕を避けることだけはしないで。君に避けられてるって分かったとき、すごく悲しかった……」
「龍樹さん」
俺の言いたかったこと、全然判ってくれてないって言おうとして遮られた。
「もし! ……もしも、君が本当に受け入れてもいいって気になったら……。その時は拒まないで欲しい。それまで待つから……。一生その時が来なかったとしても文句言わないから。……ああ、君が僕のことを少しは好きになってくれてるのは分かってるからね……」
んもう! 少しじゃないったら!
あーっ、くそっ。これじゃ何にも改善されないよ。
俺は確かに龍樹さんが好きなんだ。だけどホモセクシュアルの関係になるには、かなりの抵抗があるのも事実。
龍樹さんは待つつもりだ。半分以上諦め加減のまま、俺が変わるのを……。もしくは自分の気持ちが変わるのを……。
いいさ、龍樹さんがそのつもりなら、俺は今まで通りに甘えまくってやる。
そういう関係なしに付き合うのなら、俺にはとっても楽な筈なんだから。
「分かった……」
思いっきり親しげに笑い掛けてやった。
でも、にっこりしながら胸の内で溜め息つきまくって。
投げやりな気分になるのは何故だろう。どうしてもしっくりしない。今まで通りなんて無理だ。
絶対、絶対、無理。
ただの友達でいられるわけ、ないじゃないか。そんな風に龍樹さんを扱うなんてもう出来ないかもしれない。
だって俺は……。
だって俺は、龍樹さんを……。
愛してる……?
頭の中でぐるぐる歩き回ってた俺はハタと立ち止まってた。フッと浮かんだその言葉に、突然行く手を遮られ、立ち往生してしまった感じで。
俺のために死んだと思ったときはぽっかり開いたブラックホールに落ち込んだような気がした。
避けられてるって感じたときは寂しかった。
龍樹さんが俺を特別扱いしてくれる度嬉しくて……。俺のことで嫉妬したり拗ねたりする姿は、変だなって思いながらも心の奥底では可愛いって感じてた。
俺は……。龍樹さんて人を失いたくないんだった。
でも。
たった一度のキスで失敗しちゃったんだ。
龍樹さんは本当にあんな状況でのキス一つで確かめられるって思っていたのかな。
俺に勇気がなかっただけなのに。
龍樹さんのテストに落ちた俺は、次のテストまでは今のままでいるしかないらしい。
俺の変なこだわりが無くなるまで。
いつか、一緒にいるのが自然な二人になれるまで。俺も、龍樹さんも芝居を続けるんだ。友達づきあいの芝居を。
そうして俺は、龍樹さんが三度目の正直で煎れ直してくれたコーヒーを啜った。とっても苦くて、とっても美味しいコーヒーを……。


